大学入試で英語の配点がいちばん高いのはなぜなのか。

その理由を「これからの時代は英語を使えることが何より大事だから」と考える方が多いかもしれません。確かに、今は昔よりも『海外勢と争っていかなければならない』という切実さがあるのは事実ですが、大学入試の配点の傾向は、「英語を使える」必要性が今よりも低かった数十年前から実は変わっていません。例えば、早稲田の法学部の今年の配点は(英語60 国語50 社 or 数40)ですが、これは僕の手元にある1993年の資料でも同じです(当時は数学受験がありませんでしたが)。証拠がないので推測ですが、この配点はここ50年くらいの間、それほど変わっていないのではないかと思います。その他、いくつかの大学を調べてみたのでご覧ください。(すべて2019年入試の配点です。)

慶應法(英語200 社会100 小論100)

明治法(英語150 国語100 社会100)

東大(文系) (英語150 国語150 数学100 社会100)

一橋法 (英語280 国語110 数学180 社会160)

※東大、一橋大は2次試験の配点です。

このように入試の配点を高くして、受験生にしっかり英語を勉強させてから大学に入学させる割には、大学の英語の講義が受験勉強ほど大変ではなく、特に「英語を話す」能力については、学生の自主的な学び(英会話スクールなど)に任せている感じが、何ともアンバランスです。こうした状況を鑑みると、大学側としては、学生に「どうしても英語を実用できるようになってほしい」とまでは思っていないようです。つまり、大学側が英語の配点を高くする理由は「英語力そのもの」を重視しているからではなく、第一の理由は他にあるということになります。それではその第一の理由とは何なのでしょうか。それは、

受験英語を勉強すると『頭がよくなる』から
です。

このままでは分かりにくいと思いますので、次のように言いかえます。英語の配点が高いのは、「受験生の『頭の良さ』と『まじめさ』を調べるテスト科目として、現状では英語がベストだから」です。つまり大学側は「頭が良く」「まじめな」学生に入学して欲しいと思っていて、それを調べるために英語の試験を課し、その配点を高くしているのです。

※ここでいう「頭の良さ」とは、大学で専門的な領域を学ぶために必要な「知の力」のことで、「知能」「記憶力」「論理的思考力」「判断力」「処理能力」「未知の事を学習する能力」などを総合したものだと(僕が勝手に)定義しておきます。また、大学で行われるような研究では、学問にまじめに取り組む姿勢が重要になってくるので、入試で「まじめさ」も測られるのです。

受験英語とは「国語」と「数学」を足したようなもの
受験英語を勉強するとなぜ頭が良くなるといえるのか、それは受験英語という学問が、「国語」と「数学」を合わせたようなものだからです。つまり、受験英語を勉強することは、「国語」と「数学」を勉強していることと似ているのです。国語と数学が基礎学力の根本だということについてはみなさんも異論はないでしょう。ですから、本来であれば入試も「国語」と「数学」の配点を最も高くすべきです。しかしそうならないのは、「国語」や「数学」の試験問題が、受験者の知の力を測るものさしとして『やや難あり』だからです。それはなぜか。まず、数学については、高校数学のカリキュラムが難しすぎるため、数学の試験が「ある程度数学ができる人」向けのものにならざるをえず、受験者全体を測るものさしとなりづらい、ということだと思います。(高校で数学をあきらめ、受験科目から数学を外した人が一定数いる、ということも理由の一つです。)もし、大学入試の数学で中学の範囲の問題も出題できるようになったなら、「ものさし」としての機能は向上すると思います。一方、国語(現代文)については、一般に「どう勉強したらいいのかよく分からない教科」と思われていて、受験生が国語にあまり勉強時間を費やさない、ということがあると思います。また、現代文は、数学以上に『ごく一部のめちゃくちゃできる人と、その他大勢』に分かれる科目で、(かつての僕を含めた)その他大勢の人たちの成績をテストによって分散させること(・・・うまく分散させられないテストは、選抜テストとしてよろしくない)が難しいことも原因のひとつでしょう。そして、一部のめちゃくちゃできる人はほとんど勉強せずに最高レベルの点を取れてしまうことも、「努力」もある程度加味したい「入試科目」としてはベストではないといえます。古典(古文・漢文)については、教科として英語とよく似ていますが、中学~高校の授業のコマ数が英語に比べ圧倒的に少なく、受験生が古典に充てる勉強時間も少ないので、英語に取って代わることはできません。

ではここから、受験英語を勉強することがなぜ「国語」と「数学」を勉強することに似ているのかを説明します。

まず国語についてですが、英語と国語はどちらも「ことば」であり、「読解」の面では学問的に共通している、という点が挙げられます。また、英語を学ぶ際、その指導法がどのようなものであったとしても(仮に日本語の分からないネイティブ講師からオールイングリッシュで教わったとしても)、学習者はどこかで英語と日本語との比較を行なっており、英語を学ぶことは日本語を学ぶことでもある、と言えます。批判の対象となることの多い「訳読」という作業も、日本語の文(和訳された文)に1文1文向き合う、という点では国語の授業以上かもしれません。

次に受験英語の学習と数学の学習との類似性について説明してみます。受験で問われる英語力は、大きく「語彙力」「文法力」「読解力」「表現力」に分けられますが、これらに共通しているのが「ルールを運用する力」です。語彙=知識・記憶力と考えがちですが、単語が品詞に分類され、また単語の「用法」という言葉もあるように、「語彙力」の中にも「ルールを運用する力」は存在します。また、「読解」や「表現」も文法というルールを運用して行われるので、受験で問われる英語力が「ルールを運用する力」だと言って問題はないでしょう。一方、数学の勉強は「定理や公式を運用する勉強」ですから、両者は共通しており、その点で受験英語の勉強と数学の勉強とは似ているのです。

言語というものは「法」の支配の下にある

ここで別アプローチでの説明を試みます。今僕の手元に、大学の教職課程のテキストとなっている「英語学概論」という本があるのですが、その目次の部分を見ると、次のような言葉が並んでいます。

「音韻論」「形態論」「統語論」「意味論」「語用論」

一般の方にはほとんどなじみのない言葉だと思いますが、英語の教職課程を取った人や、英語学を専攻した人なら知っている言葉です。そしてこれらは世界中の英語学者によって研究されている「分野」を指しています。「~論」とは、ロジック・論法のことですから、これらの用語は英語がロジック(または法・ルール)で説明しうる言語だということを表しています。つまり、英語という言語は「法」の支配の下にあるのです。(ここでは英語の話をしていますが、他の言語でも同じです。)英語を母国語とする人たちは、この「法」を意識せずに英語を覚え、使っていますが、意識はしていなくても「法」を守って言葉を使っています。一方、第二外国語として英語を学ぶ人たちは、英語の「法」を意識的に覚えながら学んでいくのが一般的です。意識的、無意識的の違いはあっても、英語を使う人はみな英語の「法」を守って運用しているのです。

※ここでいう英語の「法」とは、文法と言ってもいいのですが、いわゆる文法の決まり事よりももっと大きな「論理体系としての法」だと僕は捉えたいです。

大学は受験生の「法(ルール)の運用能力」を問うている

現在の受験英語が、「実用」よりも「(知識の記憶も含め)頭を使うこと」に重きを置いているのは、入試を出題する大学側が、英語という科目を使って「法(ルール)に従って論理的に処理する能力」を長い間問い続けた結果なのです。例えば、東京大学の入試の過去問(2018年)に、次のような和文英訳の問題があります。

「現在の行動にばかりかまけていては、生きるという意味が逃げてしまう」と小林秀雄は語った。それは恐らく、自分が日常生活においてすべきだと思い込んでいることをやってそれでよしとしているようでは、人生などいつのまにか終わってしまうという意味であろう。(・・・太字部分を訳せ。)

これはこのような内容を誰かに英語で上手に伝えられるようになって欲しいと思って出題しているのではなく、与えられた日本文をルールに従ってどのように英語で表現するか、という「法(ルール)の運用能力」を問うているのです。

受験英語は『脳を鍛える』
では、受験英語を勉強すると「頭が良くなる」という例をセンター試験で説明してみます。センター試験の英語の筆記試験は、全6題の問題を80分で解答します。全問マーク式で、記述式の解答はありません。難易度は、国公立の2次試験や私大の試験と比べると易しめで、「ネイティブの小学生レベルの英語」などと揶揄されたりもしますが、平均の得点率は例年6割くらいです。平均という数値は、ほとんど勉強せずに受験した層のデータも含まれるので、状況がつかみづらいのですが、得点分布表を見ると、9割以上得点している人はそれほど多くはいません。受験において英語は重要なので多くの受験生がたくさん勉強しているはずですが、それでも9割取ることが難しいのです。このように簡単に高得点が取れない理由は、「制限時間」があるからです。

限られた時間で所定の「タスク」をこなさなければならない試験

センター試験を「辞書・参考書持ち込み可」「時間無制限」で解いてよいならば、得点はかなり上がるはずですが、実際の試験はそうではありません。「知識は自分の頭の中に入れて」「制限時間内に」「正確に」処理しなければならないのです。つまり、英語という科目を素材とした『タスクの処理能力を測るテスト』がセンター試験だといえるのです。そしてこのタスクを遂行するために「内容の読み取り」「ルールの運用」を行うわけであり、そういう意味で「国語的」であり「数学的」なのです。

全科目の中で最も「脳力」を発揮する科目のひとつが「英語」

もちろん受験生はどの科目も集中して受験するのですが、制限時間の設定が最もシビアなのが英語であり、また多くの受験生が英語をしっかり勉強して試験に臨んでいることを考えると、英語の試験のときに最も集中して「脳を使っている」と言えます。(数学の場合は、得意な人は早く終わってしまうし、得意でない人は解法を考えてウンウン唸っている時間帯があるので、タスク処理に集中している時間は英語の方が長いでしょう。)この80分ノンストップのタスク処理は、脳を相当使う作業であり、このタスク処理を行うための訓練、つまり受験勉強は、「脳を鍛えている」と言えるのです。ここからは証拠がないので僕の推測ですが、ここで鍛えられた「脳力」は、大学で学び研究をする際、そして社会に出て仕事をする際にも役立つような「汎用性」のあるものだと思っています。

「実用」とも「教養」とも違う英語学習の目的

学校教育で学ぶ英語については、それが「実用」のためか、それとも「教養」のためか、という議論がよくされますが、僕はそれに「脳を鍛えるため」ということもぜひ加えて議論して欲しいです。というか、受験英語の功罪についてこれまで長い間議論されてきた中で、「脳を鍛える」側面について論じられていないことが不思議でしょうがありません。僕個人はこのように考えています。毎年50万人以上の人がセンター試験を受験しますが、社会に出てからも英語を使うことになる人はその一部で、多くの人は英語とは直接関係のない生活を送ることになります(・・・今後は変わっていくでしょうが)。それでも僕は受験のために英語を一生懸命勉強することは「教養」面だけでなく「脳を鍛える」上でも重要であり、意味のある事だと思っていて、極端な話、受験勉強で英語を勉強した結果が、「ほとんど英語を話せない」だったとしても、「頭が良くなった」という点でお釣りがくるくらい役に立っていると考えています。

※ただ、「英語を勉強すると頭が良くなるからやりましょう」とは生徒に向かって言えません。それでは生徒が勉強する気を起こしませんから。しかし、入試制度について考える際は、「頭が良くなる」という面も大人は考慮すべきです。そして、頭を良くするのに適した科目としては、現状では「英語」が一番なのです。

入試英語で「まじめさ」も測ることができる
前にも言いましたが、ここでいうまじめさとは「学問にまじめに、根気強く取り組む姿勢」のことです。

受験英語の勉強で「まじめさ・根気強さ」が必要となるのは、何と言っても「単語・熟語の暗記」です。こればかりは、時間をかけてこつこつ知識を増やしていくほかありませんが、一方で、時間をかけてまじめに頑張れば、もともと記憶力の優れた人と同列に並ぶことができます。数学や現代文の場合は、ふつうの人がどれだけまじめに頑張っても、その教科のトップクラスの人と並ぶことはできません。(センター試験のような易しめのテストであれば、満点で並ぶことができますが、試験の内容が難しくなれば、必ず差をつけられます。)別の言い方をすると、英語は「まじめにこつこつ頑張れば成績が上がる」教科であり、それだから受験生は(英語が好きか嫌いかは置いておいて)英語の勉強を頑張ろうという気になるのです。そして現在の入試英語は、まじめにこつこつ頑張った人がきちんと評価されるようにできています。

もし、受験生自身が入試の配点を決めることができるとしたら

「自分の入試の配点を自分で決められるとしたら(ただし、他の受験者もその配点になります)、あなたはどういう配点にしますか。」というアンケートを受験生にしたとすると、どのような結果になるかを考えてみたいと思います。上位の成績を取る自信のある科目を持っている人はその科目の配点を高くするでしょうが、それができる人は一部の人に限られます。なぜなら、多くの人は『好きな科目=他の人よりも高い点が取れる科目』とはならないからです。そうすると、多くの受験生は『好き嫌いは置いておいて、勉強すれば他の人よりもいい点が取れる科目』の配点を高くするのではないでしょうか。このようなアンケートは存在しないので予想でしかありませんが、(大学側だけでなく)受験生の側も英語の配点を高くするだろうと僕は思っています。

このように、多くの受験生は英語を「受験にとって重要な科目」と位置付けていて、英語の勉強に多くの時間を使っています。また、「やれば成績が上がる」「やれば上位の成績を取れるかもしれない」と思うことでつらい暗記作業にも耐えられます。こうした受験生の努力を『実用的でない無駄な勉強』と切り捨ててしまうのはあまりにかわいそうですし、受験を経験して大人になった方々が「あれだけ勉強したのに英語が使えないなんて、無駄なことをしてたよなあ」などと言うのを聞いていると、「そんなことないですよ、あの勉強で少しは頭が良くなっていますから!」と言ってやりたくなります。だいたい僕より年上なので言いませんが。

まとめ:変わりゆく入試制度に対して思うこと
現在は英語の試験制度改革の真っ只中です。改革を行うには、これまでのことを客観的に評価することが前提として必要ですが、英語教育が相変わらず「実用」か「教養」かでしか論じられていないため、その議論に「知力の養成」の側面も加えて欲しいという思いでこの投稿を書きました。ですから、この投稿では、実際に大学入試を作成する教授の先生が試験問題に込めた「英語そのものに対する想い」や、学校や塾の先生が受験英語を指導する中で「試験で点を取ること以外に、英語のすばらしさ・面白さを生徒に伝えていること」などが省かれていることをご了承ください。学問そのものに対する愛情や熱意がなければ、生徒には伝わらないことは分かっています。

現在までの受験英語が「①知力を養成」し、「②勤勉さによって才能やセンスを凌駕できる」科目であり、「③お金をあまりかけなくても自分の頑張り次第でトップレベルの成績をおさめられる」という点も考慮して次へ進んでほしい、というのが僕の願いです。僕は、4技能試験への移行は時代の流れも考えて反対ではありませんが、①についていうと、2技能から4技能へ移行することで、「現在の試験制度のタスク処理のレベルを今後も維持できるのか」は一度論じられるべきだと思いますし、②や③については、今後は子どものころからある程度お金をかけていかなければ英語の受験でトップは取れないようになると思っています。つまり、親の所得格差が子どもの英語の成績の差として出てくるということです。もし今後も英語の配点が高いままならば、このことは良くないと僕は思っていますが、これも世の流れなのでどうすることもできないでしょう。ですから僕は、『できるだけお金をかけずに、大学の試験でトップ層に少しでも近づけるような英語の学習法』を考え、世に出していきたいと思っています。

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